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個人商店から株式会社へ

東京進出

日本が好況、不況を繰り返し、戦争への道を歩む激動の時代のなかで、「籠島忠作商店」は新しい販路を求め、東京へ進出。新たな取引先の開拓は、一筋縄ではいきませんでしたが、「中間業者や消費者には、良質で価格の安い製品を提供し、製品を扱ってくれる業者には誠実であれ」を実践した結果、次第に販路拡大の道が見えてきました。製造業者としてのあり方を身を持って教えられた経験となりました。


東京の社員の伊豆大島への旅行会(撮影:昭和10年頃)

画期的な事業に着手

時代の流れに柔軟に対応する機動力が、「籠島忠作商店」にはありました。1927年(昭和2年)には鈴木商店(現在の味の素株式会社)との取引きをきっかけに、小麦粉からグルテン(タンパク質)を抽出し、鈴木商店に買い受けてもらい、残ったでんぷんを販売するという画期的な事業に着手しました。
しかし、計画を推し進めようとした矢先に株式が暴落。計画は大きく後退しました。そのような状況の中で決行した、群馬県神明町から岩神町への工場移転でしたが、1991年(平成3年)、群馬県前橋市に工場が移転されるまで、株式会社新進の拠点となりました。


最上晒生麩(正味八貫目) 


最上晒生麩(正味七貫目)

「新進漬」の製造・販売を開始

1929年(昭和5年)、現在の「株式会社新進」の礎となる『新進漬』の製造を始めました。建坪100坪、従業員20名という小さな規模。まったくの経験のない仕事のため、失敗の連続であったものの、苦労の末に完成した『新進漬』は、販路においても、多年にわたって顧客を確保していた東北・北海道が功を奏し、順調に売上げを伸ばしました。
1931年(昭和7年)には、中国・満州で開催された第3回「日本商品見本市」に籠島忠作が群馬県の視察団副団長として参加したのを機に、満州での販路を獲得。「売れなかったら代金はいらない」――わずか30樽でスタートした満州での販売はやがて、最大手の市場となりました。
さらに1933年(昭和9年)、台湾での販売チャンスをつかみます。きっかけは、小麦粉でん粉の同業者「昭和化学」(名古屋)が製造を始めた『グルタミン酸ソーダ』の販売権を獲得し、 『ミラクル』という商標で販売したことでした。 『ミラクル』の評判を聞きつけた、台湾の大手製糖メーカー「三泰商行有限公司」と結んだ『ミラクル』の販売契約が、 『新進漬』受注へとつながったのです。


『新進漬』製造工場の前で社員と


左 『新進漬』大売出しのお知らせ(昭和6年)
 右 『新進漬』チラシ

籠島食料工業株式会社設立

太平洋戦争勃発の前年、「籠島忠作商店」では、個人経営から、4つの株式会社へと、大きく舵取りを変えました。
製造部門を「籠島食料工業株式会社」(本店:前橋)、「籠島澱粉工業株式会社」「東京化工澱粉株式会社」、さらに商事会社の機能をもつ「株式会社籠島商店」を設立。籠島忠作を全社の統括とし、2人の弟、籠島誠治、籠島勝蔵、小山喜代作、浅井清吉、工場担当に栗原孝治の5人が支えました。
太平洋戦争時には直接被弾により、倉庫が全焼するなどの被害にあいながらも、貯蔵していた「でんぷん」を餅にして被災した前橋市民に寄付するなど、貢献しました。
「籠島食料工業株式会社」はその後、着実に事業を拡大して行き1948年(昭和23年)6月には本社を東京都千代田区神田に移転します。さらに、1952年(昭和27年)6月には株式会社籠島商店を吸収合併。次の時代へと歩み出すのです。

成長を後押しした出会い

新進120年の歩み

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