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第2章 成長を後押しした出合い

漬物といえば「新進」

試行錯誤で始めた『新進漬』の製造、販売でしたが、たくあん、梅干、ラッキョウ、ショウガ、奈良漬などの漬物を次々と生産。戦前から取引きのあった特約店に加え、前橋を拠点とし、10人程度の営業マンが特約店の開拓や集金に奔走しました。同時に、配達や空き樽回収も行うなど、まさに足で稼ぐ営業活動を展開。漬物といえば「新進」と言われるまでに成長していきました。

工場焼失からの復興

1948年(昭和23年)6月、資本金を増額し、籠島食料工業株式会社は、新進食料工業株式会社へと社名を変更しました。順調な滑り出しの矢先、前橋工場内の漬物工場から出火、全焼。被害総額は7000万円にものぼりましたが、籠島忠作社長は、 近隣の方へのお詫びにまわった以外、責任者たちへ責任を言及することなく、「一日も早く生産が再開できるよう頑張ってくれ」と言っただけでした。
社長の言葉に奮起した社員一同の頑張り、「貴工場の焼失は関東一円の漬物食料への影響が大きいので早く復興するように」という政府の考え、お取引先のご支援の結果、20日後には生産を再開できるようになりました。
その後、1955年(昭和30年)に建設した新工場は、大量生産を見込んだ近代的な工場に生まれ変わりました。


昭和25年『新進漬』が上毛新聞主催
人気商品ベスト10に選ばれたときのレリーフ


群馬・前橋工場にて『新進漬』の
樽にラベルを貼る作業


昭和23年11月11日、前橋工場の火災現場


火災後の工場の焼け跡

総合食品会社としての歩みを始めたミラクル

新進食料工業株式会社の調味料づくりはグルタミン酸ソーダ『ミラクル』から始まりました。きっかけは味の素株式会社・二代目鈴木三郎助氏との縁でした。
『ミラクル』の製造に味の素(株)横浜工場長を務めた船津國平氏が、部下とともに参加したことも、調味料市場への足がかりに不可欠でした。
『ミラクル』は東京・日本橋の三越本店でマネキン販売をしたり、東京・銀座の資生堂パーラーの入口ウインドに陳列してもらうなど、当時としては斬新なプロモーション活動を実施。量産体制が整うと、三井物産株式会社を通じ、海外へも相当量、輸出することができました。
米軍の占領下にあった沖縄に視察に行った籠島萬亀(当時副社長)が、小売店で味の素と同量の『ミラクル』が販売されていることに驚いたという逸話も残っています。
総合食品会社としての歩みを進めた『ミラクル』は、相次ぐ大手企業の参入などによる競争激化に伴い、1973年(昭和48年)に製造を中止し、工場は漬物および天然調味料の製造工場に転用することになりました。


東京・日本橋三越地下一階にて量り売りによる
『ミラクル』の宣伝売出し(撮影:昭和31年頃)

研究所の活気で新商品が相次いで誕生

漬物部門や『ミラクル』を中心とした調味料部門の成長により、営業活動も活発化し、全国の特約店数も拡大・定着していきました。こうした特約店を組織化し「全国新進会」を結成し、相互の意思伝達やPR活動を行っていました。
しかし、流通の常識を大きく覆したスーパーマーケットの登場により、会は解散。営業戦略の大きな転換期となりました。
一方で、自社ブランドの新商品開発への機運は高まり、大学卒の若い研究者を中心に、その後の主力商品となる新製品を次々と開発しました。
また、10年来の懸念事項であった『小麦タンパク』の新しい利用法の開発も成功。1960年(昭和35年)に『ハイプロ』として製造・販売され、ハムやソーセージ、冷凍食品、製麺など幅広く活用されました。
日本酒の滓(オリ)をとる『オリトール』は、業界でも注目を浴びたヒット商品となりました。アミノ酸液を脱臭、脱色した『アミシン』もこの頃産声をあげた商品です。


新前橋倉庫の二階にあった中央研究所(撮影:昭和37年頃)

個包装化と自動作業化

合理化、標準化が進み、家族形態も核家族が主流となるなか、大きなコストをかけても、取り組まなければならないことがありました。 個包装化です。
樽詰、量り売りから、小袋詰が主流になっていたとはいえ、個包装化はコスト面でも、「保存」という面でも課題がありました。コストに関してはともかく、「安全で良心的な食品をつくること」を理念にしている以上、「保存」に妥協はできません。いかに添加物を使わずにお客様の好みの商品をお届けするかという問題をクリアするために「低温殺菌設備」を導入。同時に漬物業界では難しいとされてきた、自動化にも着手し、均一な製品を早く大量につくることで、お客様に安心してお届けできる体制を整えていきました。


原料の洗浄(工程1)


原料の切断(工程2)


『新進漬』の包装工程。
インパルスシーラー導入(工程3)
(撮影:昭和40年頃)


製品の殺菌(工程4)


製品の乾燥(工程5)

お客様目線の開発が社会貢献にもつながる

『ダイズノン』もお客様のニーズに応えた製品です。
食生活の変化とともに食物アレルギーに悩む子どもが急増。そんななか、アレルギー研究の第一人者である群馬大学医学部の松村龍雄教授より、創業以来小麦を扱ってきた当社に「小麦を使った醤油ができないか」とご依頼がありました。
数年間の研究ののち発売した大豆アレルギー食餌療法用醤油『ダイズノン』は高い評価を得、アレルギーに悩む多くの方々より感謝の手紙が届くほど。お客様のニーズに真摯に取り組んだことが社会貢献という大きな成果も生んだのです。


『ダイズノン』のパンフレット
(昭和53年の新進科研(株)設立後、『ダイズノン』製造は新進科研(株)に移る)

日本スタンゲ株式会社設立

日本人の食生活の欧米化が進み、ハムやソーセージといった加工品の需要が急増するなか、1958年(昭和33年)、当時副社長であった籠島萬亀が、世界の食品業界の視察に出発しました。ヨーロッパ各国からアメリカへと渡る中、どこに行っても目に付いたのが「スタンゲ社」のファイバードラム。中身もわからないまま住所をひかえ訪ねたのが、1964年(昭和39年)、日米合弁第一号となるスタンゲ社との提携のきっかけです。
日本スタンゲは設立以来順調に業績を上げましたが、1981年(昭和56年)、スタンゲ社が自社株を、世界一のスパイスメーカーである「マコーミック社」に売り渡すことになったため、現在は、マコーミック社との合弁会社となっています。マコーミック社との契約改定は行われたものの、持株比率および長く親しまれている「日本スタンゲ」の社名は変更しないことで合意し、「日本スタンゲ社」は、現在も健全な発展を続けています。


東京・保谷市の東京工場。
向かって左側が日本スタンゲ(株)(撮影:昭和42年頃)


マコーミック社との提携


日本スタンゲ(株)入間工場


日本スタンゲ(株)川越工場(撮影:昭和64年)

現在に続く土台作り

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